
読んでいた本の中に、こんな文章が出てきました。
平等、自助努力、自己責任。そういうこともあるし、それだけじゃどうにもならないこともある。ポジティブすぎて、それが見えなくなってしまうのなら、ネガティブすぎる人と何も変わらないと思う。
大原扁理(著)『隠居生活10年目 不安は9割捨てました』より引用
大原扁理さんの『隠居生活10年目 不安は9割捨てました』という本の中の一節です。
この文章を見たとき、すごくハッとさせられました。
忘れかかっていたことを思い出させてもらったような感覚です。
これだけだとやや説明不足な感じがするので補足すると、
→人間は、ネガティブな思い込みが実際に起こるような状況に遭遇すると脳から快楽物質が出る、となにかの本に書かれていた
→例えば「自分は貧乏だから欲しいものが買えない」と思い込んでいる人が実際にそういう場面に出くわすと、「ほらね」と事実に反して少しイキイキするようなことがある
→これってポジティブな場合にも同じことが言えるのでは
という流れから冒頭の文章へとつながります。
ネガティブなのにイキイキ?と疑問に思うかもしれませんが、
どんな場合であれ自分の思い込みが的中するというのは快感情みたいで、ネガティブすぎる人を思い浮かべると何となく想像がつくかもしれません。
これとは逆に、ポジティブであることは一般的には良いこととされています。
「されています」というと実はそうじゃないかのような言い方ですが、そんなことはないでしょう。
批判が飛び交う世界より、賞賛で溢れる世界の方が明らかに生きやすそうです。
ただ、それらが行き過ぎた結果、ときたまポジティブすぎる意見を見かけるときがありませんか。
たとえば、
「○○」なんて関係ない、すべては自分次第だ!
みたいな。
「家庭環境」なのか「上司の意見」なのか、「経済的事情」なのか。
「○○」には様々な言葉が当てはまるでしょう。
これらの意見は、究極的には正しい部分もあると思います。
ウダウダ文句を垂れるぐらいなら自分から変えていこうよという気持ちも分かります。
それに大半は誰かを勇気づけたい、元気になってほしいという優しい気持ちから出たものでしょう。
ただ一方で、ポジティブすぎて見失っているものがあるのも事実だと思うのです。
自分で変えていくしかないと分かっていても、それが今じゃない人もいる。
それらが全く見えなくなってしまうポジティブなら、決して「良いこと」とは言えないんじゃないかな、と。
僕はそう思います。
ただ、歯切れの悪いことを言うようで申し訳ないのですが、
じゃあ、どうすればいいのか。
どうしていけばいいのか。
となった時に、これらの発言を慎めばいいのかというとそれもまた違うと僕は思っています。
言葉というのはその時々で表情を変えるものですから、
その言葉が誰かにとって救いとなっている一方で別の誰かを苦しめている可能性もあって、キッパリ白黒つくものじゃないですからね…。
じゃあいよいよ何が言いたかったの、という話になりますが、
僕が思うのは、それらのことを頭の片隅に置いておくだけでも変わる部分があるんじゃないかなということです。
少なくとも全く何も考えないよりは幾分マシな結果に繋がるのではないかと思います。
ネガティブすぎるのは当然良くないだろうけど、ポジティブすぎるのもまた良いとは言えない。
なるだけフラットな自分でいたいな、と。
そんなことを考えた一節でした。
綺麗な結論に至らず、なんともあやふやな話になってしまいましたが…
こうして時折自分を見つめ直すきっかけを与えてくれるのも読書の良さかな、ということで記事にしてみました。
若輩者の浅はかな考えですので、どうか聞き流す程度にして頂ければと思います。
良かったら皆さんの見解も聞かせて下さい。
下のコメント欄からいつでもお受けしております。
最後までお読み頂いてありがとうございました。
↑冒頭の文章はこちらの本に出てきます
感想も書いていますので良かったらどうぞ。
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